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事故で脊髄を損傷し歩けなくなった20年後、聖火ランナーとして走る未来があった話:アカザーの車いす野郎 - Engadget日本版

連載:アカザーの車いす野郎 ~車いすの編集者が20年後に歩いて聖火を繋ぐまで~

元週刊アスキーの編集者アカザーが、事故で下半身不随となり車いすユーザーになるも、その20年後に聖火リレーで歩いて聖火を繋ぐコトに! そんな、ちょっと何をいっているかよくわからない話を、盟友の漫画家ミズグチ画伯のイラストを添えてレポートします!


どうもアカザーっす! 以前は週刊アスキーという雑誌で編集者をやっていました。このコラムのイラストを描いてもらっている漫画家のミズグチさんとは「カオスだもんね!」という体験レポート漫画を四半世紀ほど一緒に作っていた腐れ縁の仲です(笑)。

【自己紹介】週刊アスキーの編集者を経て、現在は車いすのフリー編集者・ライター。2000年にスノーボード中の事故で脊髄を損傷(Th12-L1)し車いすユーザーになるも、2018年に再生医療の治験を受け、2021年に聖火ランナーとなり10歩歩く!

事故で脊髄を損傷し歩けなくなった20年後、聖火ランナーとして走る未来があった話

週刊アスキーでかけだしの編集者をしていた2000年。スノーボード中の事故で脊髄を損傷(Th12-L1)し車いすユーザーになりました。

その後は、車いすの編集者として週アス編集部に復帰し、仕事をさせていただいていたのですが、2018年にいろいろな出会いや偶然が重なり、最先端の再生医療の治験を受けることに!

そして、再生医療後に2年間の歩行トレーニングを経て、2021年4月に聖火ランナーとなり故郷の徳島で、20年ぶりに10歩歩くという夢のような時間を過ごすことができました!

医者から「これから一生車いすです」と言われ、人生に絶望した日から約20年後の未来。まさかあの絶望のその先に、こんな最高の1日が待っているとは思いもしませんでした。

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車いすで仕事に復帰して1年後に気付いたコト

21年前の2000年8月。俺はスポーツ中の事故により脊髄を損傷し(Th12-L1)、医者からは「一生車椅子です」と告げられました。受傷した当時はベッドから身体を起こすだけで、起立性低血圧でブツ倒れるわ、車いすへの乗り移りにも介助が必要な感じでした。

「この先の人生、俺は他人様の時間を食いつぶしながら生きて行くのか?」と人生に絶望し、全てが真っ暗な闇に包まれたような気持ちになりました。怪我をする10か月前に結婚をし、順風満帆で薔薇色だった日々が一瞬で全く違う人生に。

歩けないコトも辛かったのですが、排尿や排便のコントロールができない排泄障害で精神的にもかなりダメージを受けました。

車いすバスケ漫画『リアル』で描かれている、交通事故で車いすになった高橋久信のエピソードを読むたびに、当時の自分といろいろダブります。高橋君がリハビリをする病院のモデルとなったのが、俺が入院していた所沢のリハビリテーションセンターだったので、余計そんな気がしたのかも。(当時、病院のそこかしこに漫画家 井上雄彦氏のサインがありました)

漫画にはリハビリを指導する鬼トレーナーが出てくるんですが、実はその病院にモデルとなった方がいて、似顔絵がそっくりでリハビリ仲間と笑っていました。当時は俺もそのトレーナーさんに、車いすに廃タイヤを括りつけられて体育館を走るという、星飛雄馬的なメニューなどでしごかれていました。

でも、今ならその厳しさが優しさだったってコトは痛いほどわかります。あの厳しいシゴキがなければ、体力がなく車いすを思うように扱うことができず、社会に出て自立し生きて行くコトはかなり難しかったと思います。

しごかれたおかげで、10か月後にリハビリ病院を退院する頃には、数段の階段を車いすでウイリーをしたまま下れるくらいの体力と車いすを扱うスキルが身についていました。そして、車いすで生きて行く自信と覚悟も。

とはいえ、自信と覚悟はあっても仕事が満足にできるかは別問題。当時の週刊アスキー編集部は、20年前には破格ともいえるほどのバリアフリー化で俺を迎え入れてくれました。なので、それに応えてこそ男ッ! と、意気込んで仕事に復帰したものの、最初の3か月は通勤だけでヘトヘトになり、ウンコを漏らさないかと心配でトイレに1時間以上も籠ったりと、仕事らしいことは何もできませんでした。

実はいちばんキツかったリハビリは、自分で全てをイチから学ぶ必要があった職場復帰のリハビリだった気がします。何とか週刊誌の現場で皆の足を引っ張らないように、戦力として頑張れているようになったかも? と感じられるようになったのは、仕事復帰から1年後のコトでした。

仕事復帰にかけて大きな自信となったのが、前述したミズグチさんとの「カオスだもんね!」の連載です。「カオスだもんね!」では、漫画家であるミズグチさんとフリー編集者のシャクライさんと俺の3人で、のぞき部屋に行ったり、バンダイでガンプラの歴史を学んだあとにプロモデラーに弟子入りしてガンプラを作ったりするのを、そのまま漫画でレポートするのが仕事でした(笑)。編集者というよりもなんか今のYouTuberの企画っぽいすね。

そんな感じで、車いすになる前は色々なコトをやっていたんですが、車いすになったコトで前と同じようにできなくなったために「カオスだもんね!」に復帰するのは難しいだろうと、心のどこかで思っていました。

しかし、仕事に復帰して数か月。当時の週刊アスキー編集長F岡さんから「そろそろカオスにも復帰してみるか?」のお言葉が⁉ この言葉をもらったときは嬉しくもあったんですが、「車いすになった俺が前みたいにできるのか?」という不安のほうが強かったです。なので、最初はソニーさんなどの大手で、車いすトイレがありそうな取材先ばかりチョイスしてたなぁ(笑)。

その車いすで復帰した「カオスだもんね!」でいちばん嬉しかったのが、ミズグチさんが漫画内で俺を車いすになる前とかわらない毒舌キャラで描いてくれたこと!

車いすになった俺を腫れ物や飾り物、お涙ちょうだい的なキャラとしては一切扱わず、健常者の頃の俺とかわらずに扱ってくれたことが本当に嬉しかったです。たぶん中途障害を負った方々がいちばん嬉しいコトは"障害を負う前と同じように家族や友人たちから扱ってもらえるコト"な気がします。(もちろんそれには本人の努力も必要だと思います)

また、車いすでいろいろな場所に出向き取材を重ねていくなかで、当然のように階段が立ちふさがるコトがあります。そんなときはフリー編集者のシャクライさんが俺をおんぶし、ミズグチさんが階段の先まで車いすを運んでくれました。これがどんなバリアフリーよりも嬉しく心強かったです。ふたりが一緒なら車いすになっても前のように何でもできる!みたいな気持になりました。

それまではすべて自分ひとりで何とかしなければ! と考えて気負っていたんですが、よく考えたら健常者同士でも仕事上での助け合いってフツーのコトなんですよね。当時の俺はそれすら忘れるほど「人の助けを借りることは、人の時間を奪うコトだ!」と気負ってました。でも、できないコトは素直に助けを借りて、それ以外の自分ができるコトで受けた恩を返していけばいいのだと気が付きました。

健常者のふたりと仕事をしていく中で、車いすには車いすなりの社会貢献方法がいくらでもあると気付いたことで、はじめて車いすでの社会復帰ができたんだと思います。

毎回アホなことばかりやっていた体験レポート漫画「カオスだもんね!」と「カオスだもんねPLUS」ですが、その裏にはこんなイイ話があったんですね~(笑)。

次回は、聖火ランナーになって20年ぶりに歩くコトになったきっかけでもある再生医療との出会いについてお話します。

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