Appleの空間オーディオが進化した。
macOS Montereyが12.3にアップデートしたことで、「ミュージック」アプリがダイナミックヘッドトラッキングに対応した。
「ミュージック」で、Apple Musicの空間オーディオ音源を試聴したところ、たしかに頭の向きを変えると音の定位が移動する。ちなみに、iOSとiPad OSは、15.1以降で、映画など映像系コンテンツにおいては、macOS Monterey公開時から対応済みだった。
macOSの「ミュージック」アプリではこれまでグレーアウトされ選択できなかったメニューバーのコントロールセンターの「空間オーディオ」メニューに「固定」「ヘッドトラッキング」の項目が追加されている。
ただ、macOSの「ミュージック」でヘッドトラッキングによる空間オーディオを楽しむためには、再生環境が限定されてしまう。AirPods Pro、AirPods Max、AirPods(第3世代)または Beats Fit ProといったAppleかBeatsのイヤフォン・ヘッドフォンを利用しなければならない。
映画やゲームといったスクリーンに正体するコンテンツとは異なり、イヤフォンで聴く音楽には明確に「正面」が存在するわけではない。基本的に顔が向いている方が正面だ。そのためヘッドトラッキングをオンにして音楽を聴くと、ちょっとばかり混乱してしまう。
例えば、顔の向きを変えたことで、正面で歌っていた歌手が突然右耳方向に移動する。それは正しいことでもあるようでしかし、没入中の音空間から受ける印象が突然変化し、少しオーバーな言い方をすると音楽が放つ世界感が変わってしまう。奇妙なリスニング体験だ。
ただ、この辺りの違和感についてはAppleも心得ているようで、顔の向きを変えてから数秒後には、音像がリセットされ自動的に元の定位に戻る。で、そこから顔の向きを変えるとまた同じことがくり返される。定位がリセットされるのは映像コンテンツも同じ。
ヘッドトラッキングを含め、空間オーディオを堪能するためには、楽曲がDolby Atmosに対応していなければならないのは言うまでもない。対応楽曲は徐々に増えているので、今後楽しみは増えると思う。ただし、現状は、ステレオ版からコンバートしたと思われる音源が主流で、空間オーディオ「らしさ」がそれほどでもないものも散見される。
音空間の構築は、それぞれの音源の提供者が決めることなので、すべての「空間」が統一的になる必要はないのは理解している。筆者の場合、仕事でピアノを録音する機会が多いので、Apple Musicの「魅惑のピアノサウンドを3Dで」というプレイリストでさまざまなアルバムを聴き比べてみたのだが、空間の作り方に制作者の考え方が現れており実に興味深い。
一部のピアノ協奏曲を除いて、ピアノソロという極めてシンプルな構成の空間オーディオ音源だけに、音作りの個性や考え方がモロに感じられ、聴き比べが楽しいのだ。
Macの内蔵スピーカーで楽しむ空間オーディオ
空間オーディオはAppleのイヤフォンを利用しなくても楽しめる。ただし、ヘッドトラッキングを利用することはできない。指定外のイヤフォンを利用する場合は、「ミュージック」の「環境設定」→「再生」の「ドルビーアトモス」の項目を「常にオン」に設定しておけばいい。対応する楽曲であれば空間オーディオを楽しめる。
また、Apple Silicon搭載のMacであれば内蔵スピーカーでも楽しむことができる。例えば、筆者の14インチのMacBook Pro 2021で空間オーディオ音源を再生すると、ステレオとの比較で、音像が立体的に拡張する。MacBook Proの両端のスピーカーの間は約30cmの距離だが、その間隔が1m程度に広がったような印象だ。
一昔前のステレオラジカセには「ステレオワイド」というボタンが付いていた。これは、信号を位相反転して音像を強引に広げる機能だが、これを思い出す。ただし、「ステレオワイド」は、定位感が欠如し低域など音質がスカスカになるなど、とても聴くに堪えない機能だったが、MacBook Proの空間オーディオは、定位感や音質も確かで、なおかつ立体的な音像を作り出してる。
先日発売されたStudio Displayも6スピーカーシステムを搭載し空間オーディオに対応しているそうなので、さらにすごい音空間を作り出すことができるのだろう。導入が楽しみだ。
ちなみに、Appleは、Virtual Acoustic Audio Systemという名称でこの技術を特許申請している。
Apple Musicだけ異なる音で再生される?
実は、Appleの空間オーディオは、厳密な意味でのDolby Atmos Musicとは言えない部分がある。Dolby Atmos音源の再生に対応はしているものの、ヘッドフォンでの再生時は、独自仕様のレンダリングエンジンを使用しており、Dolby Atmosの仕様に準拠した音源を制作者の意図通りに再生できない可能性があるのだ。
音楽制作者の間ではこの独自仕様が原因でちょっとした混乱が起きている。というのは、同じくDolby Atmos音源に対応しているAmazon Music UnlimitedとTidalは、Dolby Atmosの仕様に正しく準拠しているため制作者が同一の音源を3者に提供した場合、Apple Musicだけ異なる音像やミックスで再生されるというのだ。
通常のステレオ音源に加え、Dolby Atmos音源を用意するだけでも、たいへんなリソースを必要とするのに、さらにApple Musicだけに特化したDolby Atmosミックスを別途作成するのはあまりにも手間がかかる。
多くのDolby Atmos音源制作者は、Pro Toolsとドルビー研究所の「Dolby Atmos Renderer」で音源を制作している。この組み合わせでレンダリングした音源では、Apple Musicにおけるヘッドフォン再生においてイメージ通りの音にならない可能性がある。
だからといって、約6000万人(2019年時点)とも言われるApple Musicのユーザーを無視するわけにはいかないのが悩ましいところだ。まるで踏み絵のようだ。
もし、Apple Musicだけ個別に対応する体力と気力(?)があれば、macOS 12.3の公開と同時に10.7.3にアップデートしたLogic Proで別途ミックスを行うという方法もある。Logic Pro 10.7.3であれば、Apple独自のレンダリングによる音でモニタリングできるからだ。
「ステレオを空間化」で、Dolby Atmosは不要か?
では、なぜAppleは、Dolby Atmosという優れたイマーシブオーディオのフォーマットからあえて逸脱するような所業に及んだのだろうか。これは筆者の推測だが、Appleが2023年にも発売するのではないかと噂されている「ARメガネ」を視野に入れた動きだと睨んでいる。
冒頭でも述べたように、音楽にまでヘッドトラッキングのような没入型の技術を適用してくるその背景を考察すると、ARメガネにおける音のユーザー体験として、ヘッドトラッキングが重要な意味を持つのではないのか。そのための布石であろう。
2021年に登場したiOS 15は、FaceTimeで空間オーディオを利用することができる。交信相手の方向から声が聞こえてくるこの機能は、ARメガネにこそ必須とされる機能だ。イヤフォンによる没入型オーディオ機能をApple側で完全にコントロールするためには、Dolby Atmosの仕様から一部逸脱しても独自のレンダリングエンジンを実装することこそが得策であるとの判断ではないのか。
このように、音楽制作者に混乱をもたらしているApple独自のレンダリングエンジンではあるが、リスナー視点で見ると大いなるメリットもある。というのは、iPhoneと空間オーディオ対応イヤフォンの組み合わせであれば、ステレオ音源を「ステレオを空間化」して擬似的な空間オーディオとして聴くことができるからだ。もちろん、ヘッドトラッキングも可能で、まさに、独自仕様のたまものと言っていい。
これがまたよくできており、しっかりと音楽に没入できる。というわけで本稿の最後に、音楽制作者の立場で叫ばせてもらう。「ステレオを空間化」があれば、Dolby Atmos音源なんていらないじゃん!(最大でも16トラック程度のアコースティック系音源を主に制作する者の心の叫びであり、打ちこみ等による凝ったトラック制作は除く)
山崎潤一郎
音楽制作業の傍らライターとしても活動。クラシックジャンルを中心に、多数のアルバム制作に携わる。Pure Sound Dogレコード主宰。ライターとしては、講談社、KADOKAWA、ソフトバンククリエイティブなどから多数の著書を上梓している。また、鍵盤楽器アプリ「Super Manetron」「Pocket Organ C3B3」「Alina String Ensemble」などの開発者。音楽趣味はプログレ。Twitter ID: @yamasakiTesla
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